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地球という3D体験場

地球という3D体験場


 日頃お世話になっているサイトで『 気付きの科学 』という、実に意味深なサイトを運営しておられるブログ主さんがいらっしゃいます。実は、先日UPした『 五次元意識を考えてみる 』も、そのブログ主さんの記事です。


 当然、全て迎合している訳ではありませんが、表現されていることの大半は意味として理解できるものが殆どで、とても示唆に富んだものだと思っています。


 今回も、『 地球という3D体験場 』という表現でとても参考になる記事がUPされていましたので、皆様に(若干の加筆修正を加えて)紹介させて頂きたいと思いました。


 それでは、早速どうぞ!


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 あなたは、映画が好きに違いない・・・そういう設定で話を展開しよう。


 あなたは、面白そうな映画が来れば時々観に行く。


 この世界にいるということは、ある意味でそういうことなのである。

地球という3D体験場


 空(くう)は無限のスペースであり、無限の時間であり、無限の波動で満ち、またそれらを生じるところの <意識> そのものである。


 空(くう)に生じる無限の波動からは、無数の周波数帯域、存在諸世界が生じている。


 あなたが見上げるこの宇宙もその1つである。


 この宇宙の中の、パケット化された更に狭い周波数帯域が、様々な星々の世界であり、この地球もその1つの世界なのだ。


 イエスの語ったとされる言葉、「天には多くの住まいがある」・・・ということは、そういう意味だ。


 それはまた、同次元、異なる次元の世界が無数にあるという意味でもある。


・・・・


 ところでそれは電磁波に同調する仕組みの、スマホの画面を観ているのとそれほど変わらない。


 また超リアルな3D映画を観ているのとそれほど変わらないし、また夢を観るのとそれほど変わらないのである。


 ・・・あなたは気付いただろうか。

スマホ


・・・・


 例えれば、人生、すなわち我々が生れて死んでゆくこのプロセスは、映画館に入り、そして鑑賞後にそこから出てゆくようなものなのである。


 まるで3Dの地球映画館・・・ということが言えるのである。


・・・


 通常の映画は、目の前の数十m先の限られた四角い領域のスクリーンを観て、 映画が終ればその映画館を出てゆくことであるが、 人生のほうも似たようなもので、しかも周囲ぐるり、そして自分の肉体も登場するところの、3次元的立体映像のようなものである。


 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの五感による感覚自己が肉体であるかのような感覚を受ける、そんな「自己投入」型の3D鑑賞方法である。


・・・・


 人のことを「人間」という、・・・実に秀逸な表現ではないか。


 人は皆、男女という <人の間> から生れて来て、人の狭間で生きる経験をする者、 人々の間に生じる人生、様々な3Dの肉体体験、及び思考や感情を経験して、そして時満ちて、去ってゆくということである。


 それに例外はない。


 そうだろう?

映画館


 世界は壮大精緻なホログラム、多次元マトリクス、あるいは幻想とも言われるが、そう、この世界に生きているということは、例えれば、全方位が3次元的スクリーンで、立体的に、触感的に、五感を通じて「観て・・・感じて・・・いる」ということである。


 観る・・・・こと、それは・・・観察ともいうが、そのこと自体に気付くことを、意識的な気付きという。


 誰でも経験があるはずだが、「あー、私は今映画を観ている・・・」という・・・・それを観ている方の <自己> に・・・気付いている <意識> であり、それは、映画に自己没入して、完全にハマっている無意識的 <自己> とは本来異なるものである。


 観察されている意識の方なのか、観察している意識の方なのか・・・。没我の存在か、自己に目覚めている存在か、一体全体あなたはどちらなのだろうか。


・・・・


 根源的な自問自答・・・「わたしは何者か?」と問う時に、一般的には、私の肉体、経歴、生年月日、男女の別等のことを言うはずだが、それは、人生映画に、完全にはまっている <わたし> の方のことを言っているわけで、生れてから今までの「人生という・・・映画」の中の、私個人という・・・登場人物のことを言っているのだ。


 ところが、実際は、あなたは、映画を観ている方の・・・存在なのである。


 そうだろう?


 後ろの正面にいる者、観ている方のあなたは、肉体存在ではないために、なかなか気づけないのである。


 肉体存在ではない私だって?・・・一体どんな形なの?・・証拠は何だ?という感覚がついつい出てくるのは致し方ない。


 それはもろに、3D世界にハマっている、習慣づけられている反応である。


 真実は、あなたもわたしも、この世界の <物> や <者> ではないのだが、赤子の時から、世間的な無知・無明の中で没入しつつ、それに適応するように刷り込まれて来たため、それが真実の認識だ・・・と信じ込むようになっている。


 「人間は肉体的存在だ・・・。」という、誰でも信じて疑わないこの事にこそ重大な誤解があるのだが、逆にそういう誤解、無知のおかげで今のような混濁した3D世界も味わえるという事でもある。


 ところが真実とは、「人は肉体的存在なのではない・・・」ということなのだ。


 我々は皆、映画の中の設定人物ではなく、それを観ているほうの存在であるということだ。


 その視座の存在は、当然ながら3次元的で唯物的な存在などではない。


 そう、それは例えるならば、『 本の作者は、本の中にいない・・・ 』という様なものだ。


 また、『 本の読者も、本の中にはいない様なもの・・・。』だということだ。


・・・・


 人は皆、この世界に生まれてすぐに、世間という無知の海のなかを泳ぐ魚のようなものであり、そして生まれた後は、親や周囲の人々が創り上げている世界に同化し適応すべく、ありきたりの教育を受けるわけで、その過程で魂のほとんど全ての記憶が失われる、いや正確に言えば、忘れるのである。

忘れてくる記憶


 それを例えれば、夢の中の出来事を、目が覚めてしまえばどうしてか殆ど忘れることに似ている。


 世界間の意識次元の違いというのか、意識の周波数帯域が異なるからである。


 ある周波数帯域には、それと同一周波数帯域の「情報」しか乗らないのだ。


 低い・荒いレベルの周波数では、高い精緻な情報を乗せることが出来ない。


 これは電磁波動を扱う、情報通信工学と同じような仕組みである。


 ところで、忘れてしまう形をとるのは、なぜかと言えば、再び思い出すためである。


 魂とも言われている普遍的な自己を思い出すためである。


 悟りや解脱(げだつ)とは、実際それなのだ。どこかの天界に気絶して消え去ることではない。


 自己探求は必要だが、決して小難しい話ではない。


・・・


 我々は皆、五感を通じた、3次元的人生という立体映像のなかに、そのまんま・・・「自己」を投入しているということだ。


 それがいわゆる3次元世界の体験というわけである。


 普通の映画で言えば、見えているスクリーンが外の世界であり、それを・・・観客席の内なる自己が・・・観ているという図式だが、 いつの間にかその物語の中に入ってハラハラドキドキしているということなのだ。


 「こ、この野郎、うあーっ、 アワワワーっ、 ギャー!」ってなものである。


 見えるのは映画のスクリーンのほうで、観客席の自分ほうは薄暗くて見えにくいものである。


 この世界スクリーンも、多くの人(集合意識)が同じ映画(共同創造)を夢中で観ているのだが、皆ともに映画の方に集中している間は、観客席の本来の観客の自己の方に気付かないものである。


 外に展開する世界にハマっている意識・・・、心ここに在らず・・・ということだ。


 人生も同じようなもの。


 この世界に生きているということは、言わば地球という3D(3次元立体)映画を、体験、思考、感情をともに・・・・観ているということである。


 いや、客観的に3D映画を観ているというよりは、完全に自己投入、自作自演をしているということなのだ。


・・・・・


 観客席にいる魂、その魂ともいうべく真我意識が、目の前の3D体験世界に完全に自分自身を投入・投影していて、本来の自己の方を忘れているという・・・そういう話なのである。


 今、あなたやわたし達が『ここに生きている』・・・ということは・・・そういうことなのだ。


・・・・・


 多くの人々は、この世界に自らの意識で入り込んでいて、その登場人物になりきって、


 自己がその世界の1部である動く肉体であると信じ込んでいる。


 自らが赤ん坊で生まれ、また赤ん坊が生まれるのを目撃し、そこからスタートするために、我々は成長する肉体存在であるという確信的認識をもってしまう。


 そうして肉体になじんだ意識の成長とともに、自我意識が活動を始め、幼いころには、「ここはどこ、あたしは誰、更には人生とは何か?死とは何か」・・・を意識し始めるのだが、あいにくの、世間一般の無知、世界的認識の了見の狭さに遭遇し、自分を思い出すことが阻まれるのだ。


 しかし、親が悪いのではない、社会が悪いのではない。


 多くが思い出せないのである。それが3D世界の特徴なのだ。


 幼少、青年時代を通じて「内面からの衝動」が薄れてゆく過程で、本来目覚めるべき「意識としての自己」を忘れてしまうわけである。


 そういう世界であったからこそ、何度も転生を繰り返すことにもなるのだが、長年かけて繰りかえす、その転生のプロセスでの体験知、経験知が、魂の周囲のブロックを作り上げてゆくと同時に、いつかそのブロックを自らで打壊す事が出来るまでに輝いてゆくのである。


 それが、この3D世界の特徴なのだ。


 なんという体験ワールドだろうか! マジすごい・・・・ではないか。


 地球という惑星生命圏が素晴らしいのは、そういうある意味で、魂にとっては激しい修行場なのだ。


・・・・


 あなたも、わたし達も、ポット出の、偶然の生命で、死んだら終わりの存在だ・・・・という3次元的観念こそが、この世界の最悪の無知である、と同時に、激しい修羅場さえも含む様々な人生体験を可能にしてきたのである。


 ・・・・しかしそれはもう終わった事なのである。


 長く繰り返し転生を、記憶喪失のまま生きてきた魂達は、次第にそれに気づき始めている。


 物質onlyから、霊的な理解に到達する人々が増えている。


・・・・


 世界に広がってきた様々な人間達の騒ぎや混乱は、もうこの世界では、激しい修羅場での臨場体験を出来なくなることを察知した、幼い魂達の最期の希望体験なのである。


 だから、嘘がバレバレになっても、全てを見透かされていても、争いや嘘の垂れ流しをやめろと言ってもやめはしないだろうし、不正や簒奪、誤魔化しや戦争をやめろと言ってもやめはしないだろうし、そうして、とことんまで行く寸前で・・・・、この26000年、ロングランしてきた3D映画は、その一巻をようやく終了とするのである。


・・・・


 この地球という惑星生命圏は、物質の塊として、ただ宇宙に偶然に在るなどとは思うのは無知の無知たる所以であろう。


 この世界は、小賢しい知力、表面だけの薄っぺらな人間知を超えたところの、壮大な魂の体験場なのである。


 解る人には解るだろうが、世界という立体スクリーンに展開する今回の物語は、もう、一通りのサイクル上演が終わったのである。


・・・


 なぜならば、同じ映画ばかりでは面白くもなんともないからだ。


 それ以上に魂の大きな進歩がなければ面白くも可笑しくもないのだ。


 本来、宇宙、森羅万象は、調和と進化と楽しさに満ちているのだ。


 ある映画が終わる、時代が終わる、3D次元世界が次元上昇すると言っても、しかしながら、目覚めた観客達は、何も別に必死になることも、呆然自失することもない。


 模様替えした映画館での新しい演目を楽しむか、同じような別の映画館にスライドして同じ演目を続行したいか、あるいは、映画を終わっていつものように、一旦「家」に帰るか、たいして違いはない。


 しかしながらそれは肉体自己のレベルの去就の話ではなく、肉体を超えた拡大自己のレベル、いわゆる普遍的な魂である自己の選択の話なのである。


 それは肉体レベルの個人としての私、貴方・・・が決めることではなく、私、貴方という、枝葉の元にある・・・根本的な <わたし> や <魂> が決めていることである。

人間としての経験


 3D体験世界で右往左往する、刹那的で個我たる登場人物が決めることではなく、それを観ている・・・広く、高い視座で見ている大いなる真我、あるいは魂・意識の選択なのである。


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