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意外に勘違いされ易い「中庸」の概念

意外に勘違いされ易い「中庸」の概念


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 「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われている。


 それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。だがその論語の後段には、「民に少なくなって久しい」と言われ、この「過不足なく偏りのない」徳は修得者が少ない高度な概念でもある。


 また、仏教の中道と通じる面があるとも言われるが、仏教学者によれば違う概念であるという。


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 一方、西洋の古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテース」ということばでそれを倫理学上の一つの徳目として尊重している。


 中庸(ちゅうよう)とは倫理学(特にアリストテレスの「メソテース」)において、徳の一つであり、徳目全体の中では最も高位に位置付けられているようだ。


 『ニコマコス倫理学』のなかで、アリストテレスは人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)を挙げた。メソテースとはギリシャ語(ギリシア語: μεσοτης, Mesotes)であるが、英語ではGolden Mean(又はHappy Mean)と言う。


 日本語訳ではこれに「中庸」という儒教用語をあてた。例えば、勇気は蛮勇や臆病の中間的な状態である時はじめて徳として現れる。アリストテレスによれば、この両極端の中間を知る徳性が思慮(フロネシス、実践知)である。


 アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。


 人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。


 また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知である。


 ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。


 また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。


 アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。


 なお、かれの著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。


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 「中庸」の「中」とは、偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。よく、中途半端や50対50の真ん中と勘違いされている。中間、平均値、足して2で割るというものではない。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ平凡な感覚でも理解できるものである。


 「庸」については、朱子は、「庸、平常也」と「庸」を「平常」と解釈しており、鄭玄は「・・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」と「庸」を「常」と解釈している。「庸」が「常」という意味を含んでいることは二人とも指摘している。


 現在、多くの学者たちは「庸」が「平凡」と「恒常」との両方の意味を含んでいると見ているほか、「庸」は「用」であるという説もある。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。


 中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。


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